不変の真理を求める危険性

 結構昔の話ですが、あるテレビ番組で、動物性たんぱく質は量さえ間違わなければ体にとって悪い物ではないという情報がクローズアップされました。
 それに対して司会者が、「以前は動物性たんぱく質が体に悪いという事で、植物性たんぱく質に切り替えるよう勧めていた。次から次に新しい論文が出て、私たちはそれに振り回されている。今回の理論は、もう確定でいいんですね?」
 という趣旨の発言をしていました。まあ、発言した人を考えれば多分敢えてこういうい発言したような気もしますけど、その考え方は非常に危険だと私は感じます。


 こういった文句は、運動理論の紹介においても言う人が多いのですが、それはもうしようが無い事と割り切ってもらうしかありません。
 何故ならば、科学的であろうとすれば反証可能性が認められるものでなければならないからです。
 もう少し分かりやすく言えば、「より良い理論が出てきた場合今までの理論を置き換える事が許されなければなない」という事です(少しニュアンスは違うが)。そうでなきゃ、研究という分野自体が成り立ちません。

 

 僅か数十年前、スポーツの場で日本ではうさぎ跳びがトレーニングメニューの定番であり、運動中に水を飲めば持久力が身につかないと考えられ、炎天下で我慢してトレーニングすることが持久力を身に着けるのに適していると考えている人が多くいました。
 それらの理論は、研究者がその影響を調べ、反証したからこそ改められたのです。
 そんな昔の事というかもしれませんが、今から数十年後の人から見れば、今私たちが正しいと思っている理論が、私たちが誤った理論として認識している練習中に水を飲んではいけないというのと同じくらい誤った理論かもしれないのです。
 だからこそ研究者が日夜研究し、より良い理論を求め続けているのです。
 ですので、私は何かを説明したり理論の紹介をする際に、常に「正しい」理論という言い方をしません。もし言うとすれば、「現時点では最も確からしい」とか「より良い」という表現になるでしょうか。

 

 最後に、私が大学時にコーチング論で教えられた考え方を紹介します。それは「学ぶことを止めた者は教える事を止めなければならない」というものです。これは素晴らしい考え方だと思います。
 つまるところ、現在は主流であったり良いとされている理論も、日々の研究により更新される可能性は常にある。だからこそ、誰かを教える立場にいる人は、日々学び続けなければならないという事です。
 そして、私は何もそれは教師やコーチだけに限る話では無いと思っています。結局それは私たちすべてに言える事であり、生きて行く中で学ぶことを止める事は出来ないという事でしょう。

 新しい理論が発表されたときに、それを好奇心を持って目を輝かせて聞くか、今まで私が学んだことは無駄だったのかと肩を落とすかは人それぞれです。
 ですが、結局それが避けられないのならば、なるべく楽しむようにした方が建設的でしょう。