教育上怒る事や体罰は害悪でしかない

 最近教育現場での体罰についてクローズアップされることが増えてきたように思います。
 そして、そういった際に必ず「体罰を行う側に相手を思いやる気持ちが有れば、体罰もある程度は許容される」とか、「相手を叩いた時には叩いた方の手や心も痛いのだ」等と主張する人が居ます。
 これ、普通に考えればとんでもない主張だと思うのですが、何故か一定の理解を得られたりします。お前らは一体どれだけ自分が好きなんだ。

 

 私は、体罰とそれに関連して教育対象を怒る事は、百害あって一利なしと考えています。愛情のある体罰など存在しませんし、怒る事についても同様です。
 そもそも体罰をふるうという事は、あるいは怒るという事はどういう事なのか。
 人は誰しも怒られたり殴られたりしたいとは思いません。つまり、そうやって教育されたときに「体罰を受けたくない」、「怒られたくない」という心理の基に行動を変化させます。
 一般的にこのような行為は、「恫喝」、「恐喝」、「脅迫」、「強要」等と言います。普通に考えれば明らかに犯罪行為です。
 相手に体罰を加えたり怒るという事は相手の事を思いやっているわけではありません。単に自分の思い通りに行動しない事に腹を立てているだけであり、その感情をコントロールできず行動に移しているだけです。

 

 相手に体罰をふるったり怒る事で行動を変容させたとしても、それは対象が成長したわけではありません。
 指導者への防衛反応として、特定の条件に対してのみ防衛行動を取ったにすぎません。
 そこに学びが無いので殆ど応用が利きませんし、体罰を受け続けたり怒られてばかりの人は自発的な行動が表れにくくなります。
 何せ防衛行動が主体になるので、自発的な行動など起こすわけが有りません。余計な事をして怒らせてしまうのではないかという恐れの方が大きいのですから。
 そういった指導の有効性については教育理論の分野では既に答えが出ている問題で、少なくとも教員免許を取得する過程で学ぶ理論において、教師が生徒を怒る事、体罰を加える事などに対して肯定的な物は全くありません。
 私が教員免許を取ったのは2002年~2006年辺りなのですが、その時点でもう疑いの余地なくというレベルで否定されています。
 
 私はこれまで出会った指導者の中で、恩師と感じる人間は一人だけです。
 そしてその方には、一度も怒られたどころか声を荒げる程度の事すら受けたことが有りません。ましてや、体罰なんて最も縁遠い方でした。
 ですが、その方の事を最も尊敬してますし、かなり多くの面で影響を受けてます。また、私の人生で最も実績を残したと言える分野もその方から学んだことです。
 逆に今まで指導を受けた中でやたらと怒ったり体罰を行う方もいましたが、その方に何かを教えてもらったという記憶は全くと言っていいほど残っていません。ましてや尊敬なんて意識からは最も縁遠い存在です。
 単に言葉だけでは言う事を聞かないとか、怒られた悔しさをばねにしないと成長しないとか言う人が居ますが、それははっきり言ってトンデモ理論もいい所で、指導力が単純に足りていない事の言い訳でしかない事が殆どです。
 言葉だけでは対象が言う事を聞かないというのは、単に指導者の方に説得力が無かったり隙があるだけでしょう。
 まあ、だからこそ高圧的に出たり暴力に訴えたりする、あるいはせざるを得ないというのが実際の所でしょう。